昭和46年01月26日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
辛抱させてもらう。私は八分九分で止める時にはね、そこに辛抱が出来なくなった時ではなかろうかと思うですね。退屈だけじゃなか、もうその辛抱しきれなくなった時じゃなかろうかと思う。私は真の道とか真の信心と、こう言われますがね、今日はあのこの二十八節を頂く前に、「真の道」と言う事を頂いた。所謂真実の道と言う事ですね。その真実の道ということはどう言う事かと言うとね、それは教会までだと。
皆さんの家からね、合楽まで通うて来る。その道が真の道だと。まぁそれは大変解釈に苦しみますが、そんな事は思われませんけれども。けれども金光様の御信心は眠たいもんだというような意味において、私は感じるならばです、確かに真の道は皆さんの家から、教会までが真の道なのだ。ここのところを何遍何百遍、何千遍至り来たりしたか分からない。成程その道こそが真の道なのだ。
これは金光様での所謂、金光様の信心は、成程心ですると言うけれどもね。ある人が言うた。金光様の信心は足でするものだと。私は今日頂いた、真の道とは、お互いの家から教会までの道を、真の道というのです。成程金光様の信心は、足でするもんだと言う事に通じます。そこでそんなら成程心が第一とされる金光様の御信心でもです、心でするのだと言うて、心が間違ってないからと言うて、布団の中で拝むこともよかろう。
自分とこの御神殿で拝むこともよかろう。けれどもねそれでは元気な心で信心せよにならないと思うんです。なら大祓い寝ながらでもあげられます。私共ではまあ眠れない時なんかはね、今はもうおかげでもう枕付けりゃもう寝てしまいますけれども。眠れないような時、そりゃもう一生懸命大祓いをあげる。なら三巻四巻と覚えとりますけれども、もう五巻もあげる頃には、やっぱ寝てしまっておる。
と言う様に寝ながらでも大祓いがあげられる。家の御神前からでも拝まれる。けれどもね、それは元気な心ではないと思う。元気な心で信心せよと。病気災難は根の切れるまで一心にまめで、しかも繁盛するよう私どもの願いとするとこう。元気でありたいいつも元気でありたい。しかも愈々繁盛のおかげを頂きたい。その願いですそういう願いというものは、元気な心をもって願わなければならないと言う事が分かる。
その元気な心というのは、例えて言うと眠たい、けれどもそこを私は押していく心。成程そこには、もう心も何もないかもしれません場合には。只、どげんして合楽まで歩いていったじゃ分からん。福岡の高橋さんじゃないですけれども、以前は単車で参って見えとりました。何処から何処までって言う事じゃないけれども、随分長い所どげんしとって来よったか分からなかった。
そしてもう道のすれすれの所を、その通とってハッと目が覚めたとこう。こんなに危ないことはない、言うたら。まあそういうところも、信心の稽古をさせて頂いておる時には、辿らして頂いておったと言われる。どげんして帰る、いわゆる無我夢中であるですね。私はねここの八分九分目、九分目というところまでならば、大概なものが出来ると思うですね。なぜかというと、金光様の信心は楽しいもの。
そして今まで知らなかった、いうならば知識というかね、言わば、どんどん入ってくるんです。稽古する楽しみ、確かにです。けれどもね、一番最後のところの、例えば、もうあと一分か、あと二分かというところで止めるということは、金光様の信心を止めてしまうという意味じゃないと思う。いうなら頂き抜くというところまで、手をやらないという事。もうここまで来たから安心と思うておる。
例えば、借金をヤアヤア言うて催促されておる時にはね、それこそ尻に火が点いたようにして参って来る。もうあと僅か、これが終わると、もう楽だ。もうあとはヤアヤア言うちから催促されるところもないし、まあぼちぼち払うていきゃよかきんといったようなところまでですね、ぐらいなところから信心が緩んでおる。そのね、あと一分とか二分とかという、そこがです、それから先、それこそ、こんこんと湧いて出ずるようなおかげの頂けれるところを、皆がおろそかにする。
ひとつの難儀、病気、または代々難儀の続く人と、こういうふうに、その難儀ということがです。今、感じておる難儀が治ったとか、道が開けたという意味ではなくてです。その難儀なら難儀を通して、いつまでも尽きぬおかげの頂けれる、ひとつの、まあ基礎と言うかね、元が。いうならば、井戸がえをさせて頂いて、芯から井戸ざらえが出来て、あとはこんこんと綺麗な水が湧いて出るようなおかげの頂けれる、いうなら一歩手前のところで、大抵の者が腰掛けてしまう。
しかも何十年信心を続けておる。もう味をしめておる。止めはせん。私は、思うんですけどもね、金光様の御信心は、本当言うたらね、五年も一生懸命なったらもう、絶対おかげを受けられると思うんですけどね、実は。いわゆる御徳が受けられると思うんですけれども。どうもその辺が、いい加減なところになってしまっておる、徹し抜いていない。いうならば、井戸の上水汲んでおるような信心の様な感じがする。それで、こう混ぜられると、もう濁ってしまう。
是は形の上ではなくて心の上の、いわば事でもそうでしょう。本心の魂を磨くとか又は信心は日々の改まりが大事だと言う様な事でもです。是はもう私共が一生ここの所に思いを置かなければならない事だと思うですね。何時もいつも心磨く事に専念させて頂いとらんと、すぐに錆び付いてしまうと言った様な事になってくる。又は絶えず改まると言う事を考えてないと、もう信心の所謂心の向上というものが止まってしまう。
所謂途中で止めよ途中で止めればと言う事になってしまう。何時もここん所に心掛けさせて頂いておかなければならん。その為にはどうしてももうどう言う事になりましょうかね、昨日から私御徳を受けていく為の、こう言う様な所が大事だとこう言う所に心掛けよと言った様な事を、昨日申しましたですね。是は私が末永さんに伝えておる。居眠り癖を眠り癖を無くせよと。始末倹約をせよと言った様な事を昨日申しました。
今日はですね私共が信心のこの熱情というものが、いうならたぎっておる時、ならどういう修行でも出来るもんですよ。本気になりますとね。中々出来ない修行がありますけれども。段々お話を頂かして貰いよりますとね。もう自分はこう言う所は改めにゃいけんのだけれども、中々もう身に付いてしまっておるというか、染み込んでしまっておるというか、中々分かっちゃおれども止められないと言う所があるですね。
是はそれぞれにあるんです。私はそれをいつも合楽の先生方の願うとりました。久保山先生がもう亡くなられましたけれども、非常に甘い物が好きだった。もう好きというよりも、何というですかね、もう甘い物に憑かれた様な感じがする時すらある位でした。それには今度は反対に、久富先生が出ると、久富先生は今もう禁酒しておられますから、一滴もお酒を召し上がりません。
それは只々好きじゃなくてから、もうそりゃあほんとに好きなんです、お酒が好きな方。だからいうならここに甘な辛らなを例をとって、なら久保山先生が、甘い物が好きだ。もう好き以上の好きである。久富先生が辛い物が好きである。そんなら是は例えばどうでもよいという人から見たら、何でもない事なんですよ。そんなら私が糖尿病だから甘い物食べちゃいけませんて言われてもです、一向その堪えん。
久富先生酒はいけませんよと言われりゃね、しゃっち飲まんならんという程しの事ではない。だからそう堪えないといけれどね。ほんなら久富先生に、酒を止めろいうことは、もう私は、もうほんとに酷だと思うんです実を言うたら。それでも久富先生が居られる時は飲まん、そげなこつやっぱり親の前でも飲みますけども、それは愈々ほんとに、先生自身が、やはりほんとな修行になりなさらにゃならんから頂くだけです。
お祭宅祭りなんか参りますと、必ず私の側に居られます。先生はジュースか何かち。という私は御神酒を頂いておる。ただ側に居る者は術ないごたるけれども、矢張りそのところを矢張り今それを修行としてなさっておられるから。いうならまあもうそれこそこれに、これはもう久富先生だけじゃない。久富一家がそうなんです。子供さん達は皆好きなんです。そしていつも失敗がですね、いつも失敗がお酒なんです。
是はもうほんとに失敗という様なこっちゃないです。いつも命を落す程しの事がですね、久富先生ところでは、必ずお神酒が飾っとったという時なんです。だからもうほんと俺んところの、これはもう仇のようなものであることは分かっておられるけれども、なかなか止められないと言うのです。私は今度の研修、今しておられるのが、どう言う所から、古いとはよく私は知りませんけども、こうして一年間ですか、酒を断たして頂くというお届けがありました時に、私は思うた。
息子が学院に行く。その息子もお酒が好き。学院に行ってお酒でどん失敗する様な事があっちゃならん。こりゃいっちょ親の自分がひとつ本気で、神様にお縋がりしなければというのが、ここで禁酒になられたのじゃなかろうかと、まあ私は思うておるわけですけれども。その意図んところは分かりません。久保山先生が、あの好きな甘い物を、やっぱ時々断っておられました。
そりゃもうほんとに、もうその甘い物を食べられないと、やっぱこうイライラ焦燥があるんですね。だけどもやっぱりそのまあ噛み下すようにして辛抱しておられたらですね、神様が果してね、この男に甘い物は与えたくない、いやこの男には辛い物は飲ませたくないからであろうか、けっしてそうじゃないと思う。好きな物は好きな物でね、その為に例えば自分のいうならば、何て言うんですかね、地に落すようなまたはおかげを落す様な事になってはならないからその為に。
神様は場合には酒も断てよ、甘い物も断てよと言うて下さらんばかりの事があるわけなんです。けっして食べさせたくない、飲ませたくないというのじゃなくて。親心を実のところは、その好きな物でも頂かせたいばっかりの所なんです。ただ問題はそれはですね、ほんとに美味しいと、いうならばそれでおかげを落す様な事のない、いうなら過ぎないだけの、いうならまあどうでもよいと言う位になる所までを願っておられるのであって。さあ今日は疲れたから甘い物を。
今日は疲れたからお神酒の一杯も頂いて、疲れが取れたと言う様な程度の所でね、ひとつ止めさせて頂けるようなおかげを頂いたら、神様の願いはそん辺にあるように私は思う。そう言う様な事がね、まあだ甘な辛な事ではありません、様々な事がありますよ。そうだな、もうこればっかりは、そこの家の巡りじゃろち言うのがあります。しかも親子代々ですけんねち言うとがある。
しかもその為にその家の言わば格を落してしもうたり、その為に信心で言うならおかげを落す様な事があるのだけれども止められない。昨日から御徳を受けていくと言う事ですから、実を言うたらそんな難しい事はね、もう是は神様に与えられた物だとして頂いてもいいとも思う。例えば久富先生がお酒を召し上がるとか、久保山先生が甘い物にひとつのね、もうそれこそ甘い物を見たら、もう目がないと言う様な。
まぁそらそれでいいかもしれんけれども、私共ここに本気でね、御徳を受けたいと言った様な信心に心を向けさして頂く時には、その好きな物でも断たして頂く程しのおかげを頂かなければ出来んのです。その好きな物を断たして頂く。色々昔から修行を皆さんされるものがあります、断ちものというのがあります。食を断ったり塩気を断ったり、色々昔からその工夫をして、いわば神様へ願う一つの手段として、そういう修行を致します。けれども、それをさせて頂いとる間に、その事が大して苦にならない。
その事が丁度いい位になる。おかげを頂かしてもらう時に、与えられる甘い物であり辛い物であると言った様なおかげを頂いたら、それが最高なんです。しかもほんならここん所を一つ本気でおかげを頂くとと、例えば大徳を受けた人達の文献などを読ましてもらうと、必ずそういうふうな修行をなさっておられます。まあ例えて申しますとね、猫に鰹節と言った様な事を申しますね。
ところがね、その猫に鰹節と言われる程しの、例えば鰹節の番をその猫がするようになりましたらね、どう言う事になるか。昨日も秋永先生の奥さんが言うておられました。信心のことがね、人間のだけじゃないですよ。犬でも分かりますよ、という話をしておられました。私のこの犬は、「今からね、お母さんは合楽にお参りするよ」て言うたら、絶対あと追いせん。お神様と言うたら。
けれども他の事だったら、もう後追いして、どんこんされんち。だから犬でも信心が分かりますよち言う。さあそれが分かるようになると、どういう事になりますかね。もう犬は犬並みじゃなくて人間並みです。これはもう犬に限って、もう人間並み以上ですね、取り組んどる話を聞きますとね。肉でんなんでんよか方ん肉が、お犬様。人間の方のは、もうちょっと筋の入っとごたる肉です。
あぁ犬になりたいと思うことがある。もう人間以上でしょうが。そういう事が出来るから。猫でもそうです。はあ家の猫は、あぁたもう魚の番しますよち、言うごとなってごらんなさい。もうその猫は人間並みに扱うようになります。どんぶりを作ってやったりね、食べ物でんなんでん、もう牛乳飲ませてたりこうするでしょう。そこでです私共がそこに甘い物なら甘い物、辛い物なら辛い物が、それこそそこに有るなら、手が震う程にそれが欲しい。それでその前を行ったり来たりするごとある。
それをねじっと辛抱するというか、辛抱せんでも済むほどしの心の鍛えが出来た時です。もうそれは人間が人間並みではなくて、神様並に扱われるようになるとですよ。ここが素晴らしいです。だからほんとに御神徳を受けると言う事は、昨日の御理解で言うとわが心の中に生神が誕生し、しかもその生神が育っていくと言う事なんです。人間であってあの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃと人からも尊敬される。
神様からももう人間並みではなくて、神様並に御取り扱いが頂けれる様になるという、それを私は本当の神徳者だと思うです。だからねそれにせんならんと言う事じゃ決してない。けれども願うならばです、ほんとに御徳を受けたいと願うならばです。もう是は私の癖だから、是はもう私が好いた物だからと。まあそれがね甘い辛い位ならいいですよ。けれどもほんとに、その度に人を傷つけるだけではなくて、自分自身も難儀しなければならないようなものが、お互いの心の中にあるとするなら。
それを私は、本気で断っていこうという位な心というのがです、今日私が言うここでは、まめで繁盛するようと言うておられますが、成程まめで本当の意味においての繁盛する為には、元気な心で信心せよと仰せられるが、その元気な心とはです。自分のもうこの五体に付いておるようなもの。もう染み込んでおるようなものでもです、本気でそれに取り組んで、いうなら癌を除くようにして取り除かして頂くらいな、勇気がなからなければ、元気な心がなからなければ、出来ることではない。
そこでお互いこうして寒修行中に、お互いの信心の心が燃えておる時です。そういうような修行にも、まあ失敗しても構わん。だから本当に取り組んでみること第一。そして繰り返し繰り返ししていく内に、ほんとなものになっていくると言う様なおかげが頂かれるのです。昨日は二言申しましたね。今日はちょっと難しかけん、一言にしときましょう。明日も一言で。(笑)
これは私の体験からね、こういう生き方でいけば御徳が受けられる、神様の御信用を得られると言った様なことを、聞いて貰いたいと思うんですけれどね。今日は二十八節、ここからお互いが病気災難は根の切れるまで。いうならばスッキリしたおかげという意味なんです。為には成程、金光様のご信心とは、眠たいもんだと言う所を一遍体験しなければいけない。または真の道、真の道と言われるが、真の道とは、自分の家から、合楽教会までの間が、真の道だと。
そう信じさして頂いたら、この真の道を繰り返し歩かんわけにはいかん。そこからいわば、天にも通うていけれる程しの道が開けてくる。お互いがその真の道を本気で行じさせて頂いて、信心は心でするもんだと言われておりますけれども、そんなら心で拝みよるけん、もうよかといったような意味ではなくて、やはり信心は足でするものだと、まず分からして頂くところから、金光様のご信心がほんとに分かるんだと思いますね。
どうぞ。